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63年前の今日、NAGASAKIに原爆が落ちました。
その翌日、私の祖父は事前に危険を察知して疎開していたにも関わらず(造船関係だったので、HIROSIMAの次はNAGASAKIだと直感して、家族親族を連れて疎開済みだったんです)、翌日、近所の人への支援物資を背負って、自分の家に戻りました。
自宅のあった場所は、爆心地の近く。
何も残ってなかったと、誰も生きてなかったと、後に祖母に語ったそうです。
後に祖父は、ガンで、私が生まれる前に亡くなりました。
原爆症の認定は得られませんでした。
一緒に同行した、親戚の方も、もう誰も生きていません。
祖父の「見てきたもの」を知ってる祖母も、もういません。
63年たって、今まで見過ごされてきた、入市被爆者たちへの原爆症認定作業が認められるようになりました。
そして、誰もいなくなった、では誰も救われません。
どうか、一人でも多くの方に、救いの手が間に合いますように、と心から思います。
ピカ(原爆)のせいじゃなかとね?
後に私が形成不全の先天障害を抱えていることが分かった時、亡き祖母はすぐにそう言いました。
その時の泣きそうな声は今でも忘れられません。
「平和の祭典」オリンピックの開催初日に、ロシアとグルジアが開戦してしまいました。
平和を、簡単に願えないことは分かっています。
でも、どうか、人道に基づいて、ヒロシマとナガサキを見て欲しい。
そう、思います。
その翌日、私の祖父は事前に危険を察知して疎開していたにも関わらず(造船関係だったので、HIROSIMAの次はNAGASAKIだと直感して、家族親族を連れて疎開済みだったんです)、翌日、近所の人への支援物資を背負って、自分の家に戻りました。
自宅のあった場所は、爆心地の近く。
何も残ってなかったと、誰も生きてなかったと、後に祖母に語ったそうです。
後に祖父は、ガンで、私が生まれる前に亡くなりました。
原爆症の認定は得られませんでした。
一緒に同行した、親戚の方も、もう誰も生きていません。
祖父の「見てきたもの」を知ってる祖母も、もういません。
63年たって、今まで見過ごされてきた、入市被爆者たちへの原爆症認定作業が認められるようになりました。
そして、誰もいなくなった、では誰も救われません。
どうか、一人でも多くの方に、救いの手が間に合いますように、と心から思います。
ピカ(原爆)のせいじゃなかとね?
後に私が形成不全の先天障害を抱えていることが分かった時、亡き祖母はすぐにそう言いました。
その時の泣きそうな声は今でも忘れられません。
「平和の祭典」オリンピックの開催初日に、ロシアとグルジアが開戦してしまいました。
平和を、簡単に願えないことは分かっています。
でも、どうか、人道に基づいて、ヒロシマとナガサキを見て欲しい。
そう、思います。
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